台湾にて
台湾
ここも私の人生において大きな影響を与えました。最初は友達と一緒に卒業旅行で訪れました。その後何度も訪台する中で、一度はフリーター中に留学も考え、手続きまでしましたが、結局再考する中で断念。
台湾は計6、7回訪台していますがその中でも台東のバックパッカー宿での出逢いは大きかった。
それは初めて台湾を一周したときのこと。
台北〜台南を経て、台東まで来たとき、宿でたまたま出会った台湾人、と日本人の仲間でホンマに盛り上がった。
あの時はまだ中国語もよく話せなかったけども、夜遅くまでみんなで楽しみ、翌朝初めて台湾の早點を味わいました。
その時知り合ったYUさん夫妻とは今でも日本や台湾にお互いが行き来する時には必ず会って出かけたり食事する仲になっています。
台湾史、中国近代史研究は私のライフワークにもなっていますが、その話はまたおいおい。
2回目のドイツへ
結局、ドイツが忘れられず
ライプツィヒに一緒に行った後輩がベルリンに留学していたのもあって、今度はバックパック背負い、ひとりドイツへ。これは大学5回の時。
その時はひとりで北ドイツをぐるっと回りました。
そこから3度目は今度、ドイツからクロアチアのドゥブロヴニク、ボスニアのサラエボへ抜ける大移動も敢行。これは卒業後。
宮崎駿の紅の豚が好きで、一生のうち一度は行きたいと思ってたんですな。
もうこの辺になると、海外大好き人間と化しており、バイトしてー金ためてー海外というルーティーンが続いていました。
その頃から中国、台湾も頻繁に行くようになり、その中で少しずつ中国語も話せるようになってきたのです。
初ドイツ
そして何とか親を説き伏せて、3回の夏にドイツ語学研修へ。
滞在したのはは旧東ドイツのライプツィヒ大学。そこののInterDafコースに約2ヶ月いました。
当然ながら一番下のコースで、周りは日本人だらけでした(欧米系や中国系はみんなちゃんと勉強してきてた!)
でもこの時ばかりはせっかくドイツに来たのだからと極力海外からの上のクラスの他の国の留学生と交流するようにしてました。
そんな努力?も実り、彼らからパーティやディスコにも結構誘ってくれたり、と。
これがホンマに楽しかった。彼らって日本人みたいにいつもベッタリでなく、集まるときは集まるけど、いつもは個人行動。
いつも集団で行動しているのがホンマ苦手だった私にとっては、なんか救われた気がしました。
それ以外にもひとりでジャーマンレールパスでドイツを色々と回り、初めてひとりで海外ーという経験を味わい、それがホンマに楽しかった。
その時チューターしてくれたライプツィヒ大学の日本語学科のRくんとはその日本人の彼女(のちに結婚)も含め、いまだ繋がりを持っています。
あっと言う間の2ヶ月間で日本に帰ってきたけれども、結局その経験が忘れられず、しばらくはドイツのことばかり考える生活が続いていました。まるでドイツ熱にかかったかのように。
その時は真剣にドイツで働く、ワーホリなんかも考えていました。
運命のY教授との出会い
大学2回
副専攻の必修で、ドイツの言語と文化の授業が始まりました。
前期はドイツのシュタイナー教育と文化的な授業。一度履修したことのある先生だったのでホッ。
そして運命の後期。テーマはナチスドイツとホロコースト。テーマが重い。
そして現れた髭面のいかにもー気難しそうな教授。噂には相当に厳しい先生とのこと。
しかも授業は各自でテーマを研究し、発表するとの内容。ホロコーストなんて、アンネの日記しか知らないわたしにとってかなりの難題でした。しかもショアーというホロコーストのインタビュー映画を見ての感想発表。
総上映時間503分。
見ました。全部。
ホンマに辛かったけど、見ていると話したい内容はかなり多く、結局プレゼンの時間の尺が足らないくらいに。
それがきっかけで、Y教授から気に入られ、ある日、学内でたまたま教授に合ったとき、「shige、ドイツの鉄道は楽しいぞ!一緒にドイツの語学研修行けば、ドイツの鉄道に乗れるぞ!」
とのお誘いを頂いたのです。
海外とわたし
そもそも海外、嫌いでした。
高校時代、英語も30点代が常連。
中学の時、親の勧めで無理やりオーストラリアにホームステイに行かされ、英語もしゃべれず、飯も口に合わず、行った仲間もおもしろくなかった。
帰りブリスベン空港から帰国するとき、両手を上げて喜び、二度と行くかボケッと思いましたもん。
それが何故海外でどうしても働きたいと思ったのか。それは大学でのある出会いからなのです。
元々鉄道が幼少時より好きで、明らか文化系人間で、高校では意気がって軟式テニスをやっていたものの、天性の運動オンチのため、結局はなんとか3年間続けたというカタチ。
大学でテニスサークルに入ったものの、やっぱり合わず、結局自分の好きだった鉄道を極めようと鉄道研究会に入ってしまいました。
大学1回、たまたま取った初級ドイツ語が先生が大変いい先生で、少し海外嫌いが和らぎ、大学2回生のとき、ドイツの政治やら文化やらに少し触れるつもりで、副専攻をドイツの言語と文化コースを選択。
これが大間違い。なんとこのコース、ドイツ語中級履修が卒業必須条件になっており。ドイツの難しさを初級で嫌というほど身に染みていました。
間違いに気づき、教務部に交渉したものの、もう変更不可な状態。
そこである大きな出会いが訪れます。
転職活動②
さて、転職するにあたり何をしたか
まずは何故転職するか、目的とゴールを決める。これはあやふやでもいいので、というかどうせどこかで軌道修正は必要になります
今回の場合は、
給与は現状以上、職務内容は自動車関係、職種は海外営業といった具合です。
まずは海外就職のセミナーに参加し情報収集、それと同時に国内営業向けのリクルートキャリアさんで履歴書の添削と面接対策をしていただきました。
当初は国内就業の海外営業職もねらっていましたが、ハードルが高く、途中からは現地就業案件のみで動いていましました。
結果は、職種は希望通り営業、就業地も海外、給与は維持かダウンと思っていましたが、アップしました。ただ自動車関係という分では少し違うのOAと電子機器になりました
やっとけば良かったこと
ホンマにTOEICはやっておけば良かったです。それだけでもっと受けれる案件はふえたと思います。4年前の495点しかありませんでしたが700点は欲しかった。あと中国も視野に入れてるならHSKは必須です。2級か3級、ないとビザが降りません。
やっておいて良かったこと
バックパッカーの経験
やはりひとりで自分で現地に行って現地の飯を食べてたというのは海外でやっていけるというアピールになりました。
語学
先のこととは矛盾しますが、TOEIC495点でも持っていてよかった。プラス中国語も少し勉強してたのでHSKはほぼ一夜漬けで通りました。
仕事
何かを達成したという実績は残せたのでそれもプラスに働きました。やはり仕事は目標を持ってやるということが大事やなと。
今回は開始から内定まで約2ヶ月でした。